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ドキュメンタリー企画
「~先輩たちの背中~次世代を担う君たちに贈る、先輩たちからのメッセージ」

東京岐阜県人会名誉会長 吉村泰典氏からのメッセージ動画

ドキュメンタリー企画 「~先輩たちの背中~次世代を担う君たちに贈る、先輩たちからのメッセージ」

東京岐阜県人会名誉会長 吉村泰典氏からのメッセージをYouTubeチャンネル「一般社団法人グローバル・メディアネットワーク」にて公開しました。

高校まで岐阜で過ごした吉村氏。現在は東京と岐阜の二拠点を送っていらっしゃいます。65歳を過ぎた頃から岐阜を愛おしく思うようになり、今では岐阜へ帰ってくることが楽しみでしょうがいないそうです。

動画では、吉村氏がなぜ大学で医学部を選んだのか、そして、なぜ産婦人科医を目指したのか。医師を務めながら日本の医療の課題に目を向け、周産期医療を守るために起こした行動など、これまでの生き方をお話しいただいています。これは「子どもたちが健やかに生活できるような環境をつくるため」への活動です。岐阜への想いと共に、吉村氏の未来への想いも知ることができます。

 

岐阜県出身の多くの先輩たちが政財界で活躍されています。ドキュメンタリー企画「~先輩たちの背中~」は、先輩たちに成功されたきっかけやそのエネルギーとなった要因などをお話しいただき、次世代を担う若者たちに向けたメッセージとして、動画にまとめています。

先輩の経験や医師としての行動はきっと、みなさんの人生のヒントになるはず。ぜひ、吉村名誉会長の声をお聞きください。

先輩たちの背中タイトル画像

これからも当サイトでは、若者と社会を繋ぐ機会創出の場を創り、若者の社会性を高めるための場とビジネスステージの情報を提供していきます。


吉村氏の言葉をまとめました。動画と共にご覧ください。

私が生まれた頃の岐阜は大変、賑やかなまちでした。今とは想像つかないくらいでした。柳ケ瀬へ行くと、肩と肩がぶつかり合うような、そんな時代だったわけです。 

そして、高校まで岐阜で過ごすということになります。当時は何とも思わなかったのですが、今思うと岐阜は大変、風光明媚で非常に美しいまちです。岐阜を離れて思うことは、定年になって、65歳を過ぎたくらいから、岐阜を愛おしく思うようになってきて。最近は岐阜によく帰ってくるんです。実は私、現在も二拠点生活でありまして。一年のうちだいたい、50日から60日ぐらいを岐阜で過ごす生活を続けています。今は岐阜へ帰るのが楽しみでしょうがない、という状況です。

高校を卒業して大学に入るわけですけれども、医学部を専攻したわけです。どうして医学部を専攻したかというと、小学校の頃に、(アルベルト)シュヴァイツァーの伝記を読んだのです。このような医師になってみたいなと思ったわけであります。

しかし、私の父親は地方公務員で、母親は洋裁学校で生徒さんを見ていたわけで、当時は私が医学部を志した頃は、ほとんどがお医者さんの子弟ということが多く、親が医者じゃないとなかなか医者を志さないというような時代だったわけです。ですから、御多分に洩れず、私の両親も医学部にはあまり賛成ではなかったわけです。高校3年の頃になりまして、医学部へ行きたいと言ったら両親ともはじめは反対したわけですが、「お前がやりたいということであるならば何も言えない」と、医学部を志しました。

慶應義塾大学の医学部に入学し、それから産婦人科医を志すことになります。産婦人科医にどうしてなったかということになりますと、(大学)6年生の頃に病院実習というのがあり、地方の病院に行って実習をします。その際に、産婦人科を回らせていただいて分娩を見た時に、この分娩の素晴らしさ、女性がいかに大変な思いをしてお子さんをお産みになるのかという状況を見まして、ぜひともこの職業に就きたいと、産婦人科医になりました。

産婦人科医になってからいろんな苦労もしたわけですけれども、当時は医局という制度があり、教授が絶大な権限を持っておられたわけです。私もいろんなことをやりたかったわけですが、なかなか自分の思う通りにはならず、教授から海外に行くようにと言われたわけです。

当時、学生結婚をしておりまして、家内は慶応の同級生であり、彼女は形成外科、私は産婦人科ということで別々の科に進むことになりまして。ということもありまして、彼女も形成外科でいろんな病院で働かなくてはいけない。私も産婦人科で働かなくてはいけないということで、40年近くは別居生活を営んでいます。

海外に行ったわけでありますけれども、3年半ほど私は(アメリカの)東海岸に行っており、そのうち2年半は1人生活。このことが、私が自立をするということに非常に役立ちました。すなわち、男性の炊事洗濯掃除、こうしたものが自らできなくてはいけない。こういった自立に非常に役立ったわけでありまして。その後、日本に帰り、別居生活が非常に多かったわけですが、1人で生活することができました。

また、娘が中学から東京に来るということになり、私と娘が(一緒に)住み、妻が1人で名古屋で働く。こういった生活をずっと続けてきました。私たちは子どもを育てることも非常に大変な時期でありました。娘が中学になって私と一緒に生活するようになった頃、私は慶応の教授になっておりまして、教授職と子育てというのは非常に難しかったということを実感しております。

慶応義塾大学病院の教授になりましてからも、多くの医局に女性医師、男性医師の方が200人以上が20年近くの間で、医局員が入ってきたわけでありますけれども。この200人を教育するよりですね、1人の子どもを育てることの方が非常に難しかったということ。この1人の子どもを育てることによって、私の教授としての仕事を全うする上でも大変、役立ったと。指導する際にも、非常に温かい目で物事に接することができたということが、大変良かったのではないかなというふうに思います。

 

教授職になってからいろいろな問題が起こりました。日本産婦人科学会の理事長を務めた2007年から2011年まで、その間にはいわゆる福島県立大野病院問題が起こり、産婦人科医師が要するに逮捕されてしまう事件が起こったりいたしました。(裁判で無罪に。)

産婦人科医になり手がないと。非常に過酷な労働や労働条件の悪さ、そして訴訟の多さ、そしてまた福島県立大野病院のような問題が起こったことによって産婦人科医が激減してしまいまして、日本全国においてお産する場所がなくなってしまう、こういった事態になりました。

こういった事態になって非常に困ったことは、全国の病院において産婦人科医がいなくなってしまうという事態が起こりました。そして、日本全国でたらいまわし事件なども起こりました。東京都においても都立の病院でたらい回しの結果、妊婦さんが亡くなってしまうような悲しい事件も起こりました。

こういった状況を打破するために、時の都知事だった石原都知事にお願いをして、医師の待遇改善を図ってもらい、なんとか産婦人科医師に残っていただけるような方策を考えました。

また、日本全国の医療体制を整えるために、時の厚生労働大臣だった舛添陽一先生に大変、お世話になった。この2人の政治家と交渉することによって、日本の周産期医療を守れたのではないか、と思っています。

物事を変えていくには政治でしか変わらないのではないか、という皆様方のお力添えで、安倍内閣の2013年から2020年まで、7年6カ月にわたって安倍内閣の少子化対策・子育て支援担当の内閣官房参与を務めさせていただいたことも大変、私にとっては非常に役に立つお仕事だったと思っています。

私は(岐阜県)前知事である古田知事から岐阜の周産期医療を、要するに、いかにしてお産をして子育てをしていくかといった事業について非常に相談を受けたこともありました。当時、10年ほど前でしたけれども、岐阜においても飛騨の山奥ではお産ができなくなったり、さまざまな問題点が起こったわけです。

分娩、お産ができないということはどういうことかと言いますと、若い女性が流出してしまう。若い女性が流出してしまうということは、すなわち、その地域がなくなってしまうということを示しているんですね。皆さんもよくお分かりだと思いますけれども、我が国の未来を築いていくのは、やはり女性と子どもたちです。

子どもたちが健やかに生活できるような環境、こういったものも岐阜で育てていかなければならない。皆さん、若い方々に考えていただきたいことは我が国の未来を築いていくのは子どもたちであることを忘れないでいて欲しいですね。

今までの経験から若い人たちに期待することは、例えば大企業に就職することも大切なことかもしれませんけれども、やはり、岐阜のまちを発信、あるいはまちおこし・村おこしとよく申しますけれども、岐阜発信の何らかのお仕事をしていただきたい。幸い、現代においてはオンラインもありますし、ウェブもありますし、遠くにいてもお仕事ができる状況であるので、なんとか若い方々には若い人の目で岐阜のまちおこし・村おこしをしていただきたいというのが私の夢であります。

 

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