INTERVIEW
Leader's Voice

Interview
藤井 豊文 会長
通称 サニー藤井
藤井会長 「岐阜愛」を合言葉に、岐阜県の経済・ビジネス・グルメ・スポーツ・教育・文化・観光・芸術・伝統・郷土品など生活に関わる全ての情報の発信、発信をするためのお手伝いをすることが活動のベースになっています。また、年に数回、オンライン交流会を開催しているほか、岐阜県の若者を支援する「岐阜鮎プログラム」も行っています。そして、「第2回 岐阜県人世界大会」を2026年11月14日に開催することも決定しました。

藤井会長 これまで、オンライン交流会と総会を合わせて12回開催してきました。世界中の岐阜県に関わる人など、毎回、60~90名ほどの参加者がZOOMを使って交流をします。ZOOMの人数制限が100名でもあるので、ちょうど良い規模で開催ができています。
交流会の内容は、岐阜に関するさまざまなジャンルの有識者からお話を聞き、 岐阜のことを勉強しよう、 知ろうという 講演会をメインにしています。講演会の後は毎回、 参加者を5〜6名のグループに分けて日本語で交流をするブレイクアウトセッションを行っており、世界中の人と気軽に会話ができる機会になっています。
講演会では、基本、岐阜にゆかりのある方に講演をお願いしていますが、第12回は「世界の日本酒」をテーマに、各地の県人会の方々から現地の日本酒ブームの状況を発表していただき、大変、好評でした。また、第10回の交流会では、揖斐川中学校の生徒さんによるアメリカ研修報告をお願いしました。今後は若い世代の参加をもっと増やしていきたいと考えています。

オンライン交流会の様子
藤井会長 「岐阜鮎プログラム」は、授業の一環として岐阜の小中高校生を対象に、海外で活躍する岐阜出身者に講演をしてもらう取り組みです。昨今、内向きになりがちな子どもたちに、将来のさまざまな可能性を感じてもらい、視野を広げてもらうことを目的としています。鮎のように一度は外の世界に出て、見聞を広め、再び岐阜に戻って地域の未来に貢献してほしい、そんな願いを込めて名付けたプログラムです。
藤井会長 日程と会場が決定し、これから皆で知恵を出し合いながら、内容を詰めていく予定です。この大会をきっかけに、世界各地の岐阜県人がふるさとに戻り、二世・三世にとっては両親や祖父母のふるさと、要するに、自分のルーツに触れる機会になればと思っています。そして、岐阜の人たちと交流を深める場にもしたいと考えています。
藤井会長 ふるさと岐阜を愛し、誇りに思う人々に支えられ、世界に、そして世界から岐阜の魅力を発信する団体へと成長していってほしいと願っています。
藤井会長 私は岐阜市長森の県病院で生まれ、金華山の麓、北一色で育ちました。長森北小学校は当時マンモス校で、6年生の時に近くに新設された長森西小学校に移ったため、図らずも長森西小学校の第一期卒業生となりました。その後、長森中学校、長良高校と進み、18歳までを岐阜で過ごしました。放課後や休日はビー玉、パンコ(めんこ)、独楽回し、凧揚げ、魚釣りなど、友達と外で遊ぶことが多い子どもでした。
また、自転車旅行が好きで、小学生の頃から友達と彦根城や養老の滝まで遠出し、よく親に心配をかけていました。高校時代の夏休みには、泊まりがけで長野県の上松まで行ったり、三河湾を一周したりと、今でも良い思い出です。
大学(市立高崎経済大学)時代にはサイクリング部に所属し、伊豆半島一周、黒部ダム、富士山、北海道一周など、自転車旅行は常に私の隣にありました。
藤井会長 往年の人気番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」に夫婦で参加したものの、グアムで敗退しました。「いつかはアメリカに住みたい」という夢を抱いていたところ、仕事でサンフランシスコへ異動になったのです。その後、ロサンゼルス、コロンバス(オハイオ州)、ニュージャージー、ワシントンD.C.と米国内を転勤し、現在はニューヨークとワシントンD.C.を行き来する生活をしています。
藤井会長 子どもの頃の私は、「井の中の蛙」そのもので、正直、岐阜から出たくて仕方ありませんでした。しかし、岐阜を離れて初めて、日本の、そして岐阜の素晴らしさに気づきました。今、岐阜にいる若い皆さんには、自分たちが世界に誇れる場所に住んでいるという自信と誇りを持って生きて欲しいと思います。
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