可児市 冨田 成輝 市長

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日本が誇る文化を支えた美濃桃山陶の聖地

日本が誇る文化を支えた美濃桃山陶の聖地 | 市町村長
日本が誇る文化を支えた美濃桃山陶の聖地 | 市町村長

Interview

可児市

冨田 成輝 市長

ものづくりに携わる人にとっての原点

――今日は加藤孝造先生の平柴谷陶房をご案内いただき、現地でお話を伺っているわけですが、改めて美濃桃山陶の歴史と魅力について教えてください。

冨田市長 日本が世界に誇る茶道を茶碗、花器などで支えた役割は非常に意味が大きいと思います。それまで焼き物といえば中国の天目茶碗が一番とされていたのですが、日本の茶道には合わないということで、おそらく京都から美濃地域の陶工に指示があって作られたのだと思います。茶碗そのものももちろん素晴らしいのですが、日本が誇る文化を支えた存在という意味で価値があると思っています。

荒川豊蔵先生の資料館には美濃桃山陶が焼かれた窯跡があって、当時そのままというわけにはいきませんが、荒川先生のご子孫から寄付をいただいたおかげで見学することができます。日本人はものづくりが得意な民族だと思います。美濃桃山陶は、自然のものを使って素晴らしいものを作るという、ものづくりに携わる人にとっての原点だと思います。日本の文化を支えたということと、日本のものづくりの原点の雰囲気を感じ取ることができるという魅力があると思います。

陶房外観

陶房敷地内

美濃桃山陶は、織田信長や豊臣秀吉など時の支配者が部下に対する褒美としても重宝されました。逆にその時代が終わると消えてしまうという、はかない運命というのも私は好きです。そして瀬戸黒と呼ばれるように瀬戸で焼かれたと思われていたものを、荒川先生が当市の久々利で焼かれたものであることを発見して、当時の茶碗を再生されました。その歴史もとても素晴らしいと思います。

学生時代、私は荒川先生の工房をふらっと訪ねたことがあります。道端でおじいさんが草むしりをしていたので、「この先入ってもいいですか」と聞いたら「ああ、いいよ」と言われたので、入って荒川先生の家らしいところを見ていたら、先ほどのおじいさんが戻ってきて、ご本人だったという記憶が未だに蘇ります。「先ほどはすいません、ちょっと見させてもらっています」と言ったら、「ああ、いいよ」と言われた縁があります。

そんな私が市長になって、荒川先生のご子孫の方から寄付をいただいて、当時の雰囲気のままというわけにはいきませんが、再生して見ていただけるようになりました。そして私が市長になった年に、加藤孝造先生が人間国宝になられてお祝いに行きました。以来、私からすると、本当にかわいがってもらいました。そうした親しい関係になって、今日ご案内したこの場所も「自由に使ってくれ」ということでご寄付いただきました。様々な縁を感じていて、私が市長になった使命の一つが、美濃桃山陶をきちんと残して、今も引き継いでいる作家の皆さんを応援することだと思っています。

陶房内観

穴窯

――先ほど学生時代に荒川先生の工房をふらっと訪ねたと言われましたが、何かを見に行ったということですか

冨田市長 当時、私は名古屋の大学へ通っていたのですが、電車で帰る前に歩いていた道の途中にあった宣伝広告に目を止めました。内容は1週間で美濃の陶器を学ぶ講座で、1日目が総論、2日目が志野、3日目が瀬戸黒、黄瀬戸、織部などと続く内容でした。学生からすると受講料も高かったのですが、お茶を習っていたということもありましたし、当市に陶器の歴史があることはぼんやり知っていたので思い切って受講しました。受講した後は、本物が無性に見たくなって、荒川先生の工房を、ただ勝手に見に行ったというだけです(苦笑)。

――お茶を習っていたということで、茶道もたしなんでいたのですね。

冨田市長 たしなむというほどのものではありません(笑)。当時、私の同級生に青年団の友達がいました。「野球の試合をやるけれど4人しかいなくて、チームができないので手伝ってくれ」と言われたので手伝いました。当時、学生は青年団に入れませんでした。そんなことを言っているから青年団の人数が少なくなるんだと思って、教育委員会へ「そんな規約は撤廃してください」と言いに行きました。

規約は撤廃になり、学生も入れるようになったのですが、もう乗り掛かった舟ですから、団員を増やそうと思いました。団員を増やすには、まず女の子を増やそう。そうすれば、男子もついてくるだろうと考えました。当時は嫁入り道具ということで、女の子はお茶やお花を習う慣例がありましたから、知り合いの先生にお茶やお花を習う指導料を青年団員は半額にしてもらえないかと頼みに行きました。すると、「お前が習って、お茶やお花のよさを感じられるようになったら半額にしてもいいよ」と言われましたので、松月堂古流を習わされたというわけです(苦笑)。その後、お約束どおり青年団員には半額でお茶やお花を教えてくれることになりました。

作陶道具

――今もお茶をたてる機会はあるのですか?

冨田市長 全然(笑)。とっくに忘れています。お花は免許をもらいましたので、若い頃は正月飾りの花を私が飾りましたが、お茶は回し方や「お先にどうぞ」と言ったり、飲み方を少し覚えているぐらいです。

風塾外観

風塾前庭

荒川先生、加藤先生との不思議な縁

――荒川先生とのエピソードがあれば教えてください。

冨田市長 荒川先生については、学生時代に勝手に訪ねて、しばらくして亡くなられたので、それ以上のエピソードはありませんが、笑い話としては、荒川先生の工房を訪ねた帰り、土岐市に陶芸教室があったので、志野を作ってみました。母親が八百屋をやっていたので、生まれて初めて作った志野を八百屋の2階に、はっきり覚えていませんが「1万円」と書いて置いておきました。1週間ぐらいたって行ったら、茶碗がありません。「おかあちゃん、あの茶碗どうしたの?」「売れたよ」「えぇーっ!!」「そのお金どうしたの?」「うん、家計の足しにさせてもらったよ」ということがありました。

風塾1階

風塾2階ギャラリー

――今、陶芸をやることはあるのですか?

冨田市長 全然ありません。その時、試しにやってみただけです。せっかく本物を見たから、実際に作ったらどんなものだろうと思って、やってみただけです。

ギャラリー作品

風塾吹き抜け

――加藤先生とのエピソードについてはいかがですか?

冨田市長 加藤先生は平成22年9月に人間国宝になられました。私は11月に市長になりました。少し時期はずれてしまったのですが、お祝いに行きました。当時、当市には陶芸協会がありませんでした。市の無形文化財を指定するためには、協会などの推薦があって、それを受けて専門家が審査するというルールがあるわけですが、推薦する場所がありませんので、多治見市の美濃陶芸協会から推薦をいただいていました。なんとか陶芸協会を作って、当市として無形文化財を認定したいと思って、そのことも相談に行きました。

当時、当市は加藤先生が若いころに作った茶碗を一つ購入して所有していました。私は「可児市は美濃桃山陶の聖地です。可児市を訪れた方に人間国宝が作った茶碗でたてたお茶を飲んでいただきたいです。先生が人間国宝になられてから、しかも人間国宝として作った瀬戸黒を一ついただけませんか」と言ったところ、先生は「だいたい、お祝いというのは持ってくるものだぞ。記念に何かくださいというやつは、あまりいないぞ」と言われました。でも後日、「これ、やるわ」と言って持ってきてくれました。

茶碗をいただきましたので、その後お礼に伺いました。先生は甘いものが好きだったので茶菓子を持っていき、今度は「先生にいただいた瀬戸黒と、昔、可児市が買った志野を並べるとバランスが取れませんよね」と言ったら、「わかったわかった」と言って、翌年、「これならバランス取れるだろう」と言って陶器の専門誌の表紙を飾った志野を持ってきてくれました。その2年後ぐらいには、「前あげた瀬戸黒とは違う、面白いものが焼けた」と言って、新しい茶碗を持ってきてくれました。最終的に3ついただいて、現在は秘書政策課所管で大切に保管しているわけですが、当市に企業誘致で来ていただいた企業の社長やアーラに出演いただいた芸能人の方など、市長室を訪ねてくれた方に、職員がお茶をたてて、人間国宝の茶碗でお茶を楽しんでもらうこともあります。

――加藤先生にはかわいがっていただいたというお話がありましたが、すごい関係性ですね。

冨田市長 図々しく言ったからですね(苦笑)。それと、私がそれなりに勉強して知識があることも感じ取ってもらえたのかもしれません。でも一番は、ずけずけと生意気に言う性格を気に入ってもらえたのかもしれません(苦笑)。

 

びっくりしたのは、陶芸協会ができて、会員名簿を見たときです。一番上に名誉顧問として私の名前が書いてあって、その下に顧問で先生の名前が書いてありました。「先生、何ですかこれは。逆じゃないですか」と言ったら、「俺は退職したとき、課長だった。あなたは部長だった。あなたの方が上だ」と言いました。先生は岐阜県陶磁器試験場に勤めていた経歴があります。先生流のジョークだったのかもしれません。

――陶器について話すことはあったのですか?

冨田市長 先生はあまり話されなくて、「ふんふん」と聞いていることが多かったです。ただ、気づくことがうれしかったように思います。例えば、いただいた茶碗について、「これはこういうことですかね?」と聞くと、そうだとも言わないのですが、うれしそうな顔をされました。

――本音の付き合いができていたように感じます。

冨田市長 私は思っていることをそのままお話ししましたし、私が勝手に思っているだけかもしれませんが、そのように思います。年に2回ぐらい、先生の弟子の方から「最近、市長の顔を見ないな」と言われていますと電話をいただいて、慌てて伺ったものです。わざわざ呼んでいただけていたので、嫌われていたわけではなかったと思います。

――楽しい思い出でしたね。

冨田市長 はい。私としては本当に楽しかったですし、もっとずっと一緒にいられると思っていました。先生が亡くなる前、ある有名なホテルの責任者に、先生の陶房に来ていただきました。そして、この地域を観光で訪れた方に、この陶房に宿泊していただいてはどうかとお話ししました。ホテル側からは、「予算はどれぐらい考えておきましょうか」と聞かれたので、私は「お金はいりません。陶芸家の陶器を買っていただければ、それで十分です。商売で、ここへ来てほしいと言っているのではなく、美濃桃山陶を知ってほしいからです」とお答えしたら、とてもびっくりされました。それから間もなく、先生が亡くなってしまったので、話は立ち消えになってしまいました。先生は若い陶芸家たちの将来について、とても心配されていたので、生きてみえたら、きっと実現できていたと思います。ここも大変素晴らしいですが、人間国宝の先生と一緒の時間を過ごすことは、大変な価値があります。そうした体験を多くの方にしてもらいたかったです。

日本文化のすばらしさを感じ取ってほしい

――ここは、今後どういう形の活用になっていくのでしょうか?

冨田市長 どういう形で活用させていただくのか、検討中です。ここを傷つけないようにしながら、美濃桃山陶のことを知ってもらい、ファンになってもらうためにはどういう形がよいのか検討していきたいと思います。先生は「何も気にしなくていいから、好きな人に来ててもらったらいい」とおっしゃってくれましたが、そういうわけにもいきませんので、少し時間をかけて検討できればと思います。

――最後になりますが、世界に誇る日本文化を象徴するやきものが作られる可児市の魅力について、改めてお願いします。

冨田市長 日本のお茶を学んでいる方は世界中にいます。日本中に焼き物の産地はたくさんありますが、美濃桃山陶を知ってもらい、改めて茶道、ものづくりといった日本の文化の素晴らしさを感じ取ってもらえたらと思います。

当市の子どもたちにも、こうした歴史があるまちであることを知ってもらって、誇りをもって成長していってほしいと思います。すでに久々利の子どもたちは学校で茶碗を作って、お茶をたてていますから歴史は十分に知っています。一番は当市に住み続けてもらうとうれしいですが、進学や就職で、どこに住んでいても、歴史あるまちで育ったことを誇りに思って成長していってくれるとうれしいです。

 

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